特集 2015/9/18(金)
二村ヒトシの映画でラブ&セックス考

【第20回】『ピース オブ ケイク』に見る、“人を愛せない”男女の恋愛

『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』『すべてはモテるためである』などの著書で恋愛とモテについて説き、アダルトビデオ監督としてあくまで女性目線での作品づくりに定評がある“女性と性”のエキスパート、二村ヒトシさん。そんな二村さんが毎月1回、新作映画からラブ&セックスを読み解く連載。第20回は、多部未華子&綾野剛共演のラブストーリー『ピース オブ ケイク』を斬る!

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(C) 2015ジョージ朝倉/祥伝社 /「ピース オブ ケイク」製作委員会

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振り向いてくれない相手に恋をする理由

いや冷静に考えたら、ちゃんと植物を育てられることが、必ずしも“楽しい恋愛”につながるとは限りません。ていうか、あかりの家庭菜園は狭いアパートの庭には立派すぎて、なんだか京志郎を外から守るための「結界」みたい。あかりは、なかなかどうして強烈なメンヘラ女性なのでした。かたや京志郎は、あかりと同棲している間は志乃のアプローチをかわす、意外と堅い男。あかりに対して何か罪悪感のような感情を抱いていたのかもしれません(弱者モードで依存するメンヘラの人は、相手に無意味な罪悪感を抱かせることがあります)。
 
やがて、あかりは情緒不安定になってアパートを出て行ってしまう。寂しくなった京志郎は、寂しさをごまかすように大喜びで志乃と付き合う。志乃と京志郎は似た者同士の、寂しがり屋なんですね。寂しがり屋の人こそが、相手のメンヘラ魂を刺激するのかもしれない。共依存を形成しやすいのでしょう。
 
「寂しい」「恋愛がしたい」という動機から恋を始めてしまう京志郎と志乃は、どちらも、相手をちゃんと愛せない人間です。人を愛せない人は、ちゃんと自分のほうを向いてくれない人に燃えます。志乃の感情は、愛ではなくて“愛してもらいたい欲求”で、京志郎に執着するのは、まだ“あかりの影”がちらついているからです。 京志郎は、志乃がOL時代に関係した男たちのような問題行動はしない、とても普通の“いい奴”ではあるんだけど、やはり恋愛の相手を愛せていない。志乃からは積極的に言い寄られ、戻ってきたあかりには「やっぱり、あなたがいないとダメなの」と泣かれ、どちらも切ることができず、決められない。彼女たちの本当のニーズは、京志郎が“選んでくれる”ことではなく“決める”ことなのに。
 
京志郎が人を愛せないのも、彼が人から“愛してほしいから”です。クライマックスともいえる重要なシーンで、京志郎は「俺を愛せ!」と志乃に突きつけます。でも、あれは同時に、自分にも突きつけたのでしょう。映画の冒頭で正樹が「もっと真剣に僕を愛して!」とダダをこねているのとは、同じ言葉を使っているようで、まったく意味が違います。
 
そう言えた京志郎は勇気があります。志乃からすれば「男が女に愛してくれとは何ごとだ、お前こそ私を愛せ!」と言いたいでしょうが、そういうことじゃないんです。この物語は、愛されることを求めるのではなく「愛する」というのはどういうことなんだろう、と問いかけてきます。そしてラストでも明確な答えは提示しません。けれど物語のなかの時間を通じて、志乃と京志郎とあかりは成長したようです。あかりは、もしかしたらメンヘラは治ってないのかもしれませんが、それでも強くなりました。僕がいちばんウルッときたのは、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、志乃とあかりが再会する場面です(ここでウルッとくるのは、男である僕にとっての“都合のよさ”なのかもしれませんが)。

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