【マーちゃん道その3】部下の転職もその人の幸せなら送り出して
ー若宮さんは定年まで銀行で働いていらっしゃったんですよね。当時、会社で働く女性は少なかったのではないでしょうか。
そうでもないんですよ。まず当時、戦争直後は募集している会社自体が少なかった。あと当時は結婚する年齢が早かったから、女性はだいたい22、23歳ぐらいで結婚して辞めていくんですね。そうやって仕事に慣れないうちに会社を辞めちゃうことが多かったというのはあったと思います。
ー銀行時代はどんなお仕事をされていたんでしょうか。
銀行に入った当時は、機械化されていないからすべて手作業。お札は指で数えて、計算はそろばんでしょ。そういう時代は頭脳よりも、与えられた仕事を素早くきちっとできる人、今で言うロボットに近い人がいい社員だったんです。そのうち機械化が進むと仕事も営業とか、お客さんを増やす方向にシフトしていきました。私も営業を経験しましたけど、いろいろ思いつくほうだから業務提案とかが好きだったんですね。そうしているうちに「企画開発部門はどうだ」ということで転勤になったの。
ー大変だったこと、つらかったことはありますか?
当時は職が得られるということがものすごく大事で、働き口があること、会社でお仕事させてもらえることが何よりありがたかった。銀行は比較的、お給料もよかったですし。私は学童疎開の最後の年代で常に飢餓状態に置かれていたから、おいしいとかまずいとか贅沢を言ってる場合じゃなかったのね。その何よりありがたいものが“食”から“職”に変わった。だから当時は仕事が大変とか、そういうことをことを発想する人があまりいなかったんですよ。
ー管理職もご経験されたんですよね。
当時、海外には女性の管理職もいるということで、日本の大企業も女性管理職を増やそうという動きが出始めたころ。40代半ばのとき、1970年代の終わりぐらいに私も管理職の端くれにしていただきました。
ー女性管理職として、男性のなかでやりづらさを感じたことはありますか?
女性だから差別されるというようなことはなかったですよ。私がいたのは企画開発の部門ですから、縦割りの構造ではなく、プロジェクトチームを作って一緒にやるというわりとフラットな関係で仕事ができたんです。上司が理解のある人だったのもありがたかったですね。
定年前に関係会社に出向したとき、ある部下の男性が「転職したい」と言っていて。私は「頑張りなさい。ここにいても親会社から新しい上司が来るだけだから」と背中を押したの。 社長には叱られましたよ。「優秀な部下がいたら慰留するのが上司の務めだ」と。「だけど、本人の幸せを考えたらここにいたって芽が出ないでしょ 」って。渋茶を飲んだような顔をしてましたけど(笑)。もうそのころになると自分は退職する身だから、怖いものはないですよね。その転職した彼は、今ではIT企業の重役になっていますよ。
Interview&Text: Mirei Hirose
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若宮正子(わかみや・まさこ)/1935年、東京生まれ。東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業後、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に勤務。定年をきっかけにパソコンを独自に習得し、TED Talkにも登場、2017年にはiPhoneアプリ「hinadan」をリリースした。同年、Apple社の世界開発者会議(WWDC)に特別招待される。創設に参画したシニア世代向けのサイト「メロウ倶楽部」の副会長、NPO法人ブロードバンドスクール協会の理事も務める。近著に『60歳を過ぎると、人生はどんどんおもしろくなります。』(新潮社刊)